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1965年(昭和40年)にひとつの小さな洋食屋さんが
神戸のハンター坂にオープンしました。 カウンターがたった8席のお店でした。 当時から神戸には洋食店が多く、 その多くは老舗ホテル出身か、 客船に乗っていたコックさんたちが開いたお店でした。 グリルミヤコの初代 宮前敬治も そのなかの一人でした。 敬治は昭和6年生まれ。 14歳で岸和田の海員養成所を卒業すると、 ちょうど終戦で、乗りたくても乗る船のない時代。 最初に乗ったのは中国や満州からの引き上げ船で 下働きの小僧としてでした。 |
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そのころ敬治にコックとして船に乗ってみないかという誘いがきました。
機関士希望だったのですが、船に乗れるならいいやと昭和23年からイイノ海運のアメリカ航路の貨客船に乗ることになりました。 コックのチーフさんは華やかな外国航路客船の時代を経験してきた人たちでした。 そして最初に乗ったのは明島丸 ごはん炊きから始まりました。 船が揺れると料理中の鍋の湯や料理を体に浴びることもしばしばありました。 そこで敬治は初めて洋食というものを知りました。 |
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常島丸、富島丸とイイノ海運の船に乗り続けました。
木曜日と日曜日は洋食が決まりで、テーブルマナーもきちんとしていました。 ドゥミグラスソースを作るのはほうきで洗うような巨大な鍋でした。 追い足し追い足しでソースをつくる方法を学びました。 忙しい日はハヤシライスかカレーになりました。 そのハイライが本当においしかったそうです。 そして8年の月日が長れ、敬治はチーフコックになりました。 あちこちの外国を見て回るとういう幸運にも恵まれました。 あのタイタニックの遭難で海上交通が著しく変わり、たとえ他国の船でも仲良くしいていました。 他国の港に停泊した時も、「あの船のソースは美味いらしい」と聞きつければすぐに、少し分けて貰いに行きました。 ですが、次第に船から飛行機へと時代は進化していき、結婚し、子どもが生まれて33歳で船を降りました。 敬治は神戸出身ではありません。 入港で何度も訪れた神戸だったから神戸に店を開いたのです。 そして敬治は富島丸のドゥミグラスソースを手に入れ、船と同じに作り始めました。 |
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仏語でソースドゥミグラスと言い、
一般的に言われているデミグラスとは発音も作り方も違います。 にんにく、セロリ、玉ねぎ、にんじんをバターデ炒め、ベイリーフ、トマトピューレを加え、それに小麦粉を香ばしく煎ったルゥをいれたものがベースになります。 ひとつの鍋はそのベースに回りをこんがり焼いたテールを入れて弱火で煮る。 二つ目の鍋にはタンを入れて1時間煮たら皮をむき、再び2,3時間煮込む。 どちらも1日置いて肉に味をしみこませる。 3つ目の鍋には裏ごしした野菜とマデラ酒を加えてしっかり味付けした客に出すソースを準備する。 元の鍋と合わせて4つの鍋が必要になります。 気の遠くなるような手間がかかります。 ベースのソースに足してソースを作り続け、分けてはまとめなおす。 その繰り返しがコクのあるこのドゥミグラスソースの真髄です。 肉を炒めてでるジューを加え、余分な油はすくい取る。 休みもありません。 |
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グリルミヤコのソースは先代の降船時に持って降りたソースです。
そのソースを自分たちのソースと混ぜて追い足しつつ作っていったソースです。 「もうかれこれ100年は、続けているよ!」 と話す歴史あるソース。 阪神大震災の日には敬治は何よりも先に、倒壊した店からソースを運び出し、いつか再開する店のために、冷凍しました。 ソースを守り、いつの日か店を再開するという強い意思が震災にも負けることなく大きなエネルギーとなり、乗り越えられたのです。 震災は1月17日でしたが、店は3月に移転して再開することができました。 今、初代敬治さんは引退し、お店も震災後に再開したところから2000年に現在の場所に移りました。 パリで修行を積んだ二代目の昌尚と腕利きのシェフたちが、敬治さんの味、古くは富島丸の味を守りなんともいえないドゥミグラスソースを作り続けます。 あの大震災も乗り越えた 貴重なドゥミソースをぜひご賞味ください!! |